読売新聞に掲載された投書
明治も末、明治44年(1911年)の1月、読売新聞に小学校日本史の国定教科書の記述を批判する投書が掲載された。
どういう内容かというと、国定教科書では南北朝という言葉を使い、南朝と北朝が対等の立場で対立しているかのように書いてある。天下に二日(二つの太陽。ここでは天皇)はないはずなのに、これでは国家が分裂していると教えるようなものである。そもそも正統なのは南朝であることは周知の事実だ。
この投書、次々と炎上させる人が出て、ついにはときの総理大臣桂太郎を巻き込む一大政治問題に発展していく。
何があったのか? そもそも南北朝の問題とは? なぜこの時期に問題になったのか? 仕掛け人、黒幕は?
この問題は歴史問題のみならず、現在も繰り返される情報操作の問題や今のネット用語でいうバズり問題の本質をも考えさせてくれる。
そして私がこれに関連してなによりも不思議に思ったのは、当時、南朝正統論が支配的であったというが、明治天皇は北朝の子孫なのである。明治天皇どころか、南北朝合一後、ずっと天皇は北朝の系列なのである。にもかかわらず南朝正統論が支配的となった理由、背景を知りたい、これがこの問題を探ってみたいと思った動機である。
南北朝とは
南北朝について、おさらいをしてみたい。
南北朝とは、鎌倉幕府から室町幕府に移る時代、以下の南朝サイドと北朝サイドが対立し混乱した時代をいう。
・南朝サイドは、奈良吉野の南朝系の天皇(代表選手は建武の新政の後醍醐天皇)、およびそれを支持する楠木正成らの武士軍団。
・北朝サイドは、京都の北朝系の天皇(後醍醐天皇のような濃いキャラがおられないので代表選手を選出しにくい)、およびそれを支持する幕府(鎌倉から室町にまたがっているので、鎌倉時代は執権北条家、室町時代は足利将軍家。今で言えば政権サイド、権力サイドかな)である。
南朝北朝分裂のきっかけは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして返り討ちに遭ってしまい、隠岐に流され、その間、北条サイドで光厳天皇を擁立したことにある。
後醍醐天皇が隠岐から戻り、今度は足利尊氏と争い(後醍醐天皇は鎌倉とも足利とも戦った、ある意味メンタルタフなお方だった)、後醍醐天皇が敗れ、足利尊氏が後ろ盾をした光明天皇に践祚(せんそ)されたにもかかわらず、後醍醐天皇は吉野に逃れ、再び御自身が天皇に即位された(延元元年、1336年)。これにより、同時にお二人の天皇(光明、後醍醐)が存在することとなり、読売新聞での投書のような、天に二日ありの状態が発生することとなってしまったのである。
なお、この混乱の時代を描いたのがかの「太平記」である。
南北朝の淵源
もう少しだけ、南北朝の歴史をさかのぼっておきたい。
南朝と北朝に分裂したのは上記のように後醍醐天皇の時代であるが、分裂の素地はもう少し前から生じていた。
ことは後醍醐天皇のひいお爺さんの後嵯峨天皇の時代にさかのぼる。
後嵯峨天皇には、皇子が二人おられた。兄の後深草と弟の亀山のお二人である。兄の後深草は病身で性質も穏やか、弟の亀山は活発英邁であったという。そして後嵯峨天皇は弟の亀山の方を愛しておられた。
しかし、承継の判断は鎌倉幕府、具体的には北条に仰いでおり、北条の判断は兄の後深草をであった。
したがって、とりあえず父・後嵯峨は兄の後深草に譲られたのであるが、次男坊を愛せられる気持ちを抑えられず、兄の後深草を譲位させ、弟の亀山を天皇に就かせられた。そして、父・後嵯峨は、以降も弟の亀山系統に継がせていきたいと亀山の子の後宇多を皇子に据えられた。
収まらないのは兄の後深草である。父・後嵯峨亡き後、鎌倉幕府に訴えかけ、後宇多のあとの皇子は、自身(兄・後深草)の子の伏見とした。さらに、そのあとも兄・後深草系統で占めようとした。
事ここに至って鎌倉幕府も兄系統、弟系統を交互に立てることを提案、両統迭立(てつりつ)に至ったのである。
ただし両統迭立であって両統併立ではないから、それぞれの系統の天皇が交互に即位されるということであり、同時にお二人の天皇があらせられるということではなかった。
兄・後深草の系統をそのおられた場所の名前をとって持明院統、弟・亀山の系統を同じく場所から大覚寺統という。
そして兄・後深草の持明院統が北朝につながり、弟・亀山の大覚寺統が南朝につながる。
活発英邁な亀山天皇のキャラはさらに増強して孫の後醍醐天皇に継がれたのかもしれない。
そして英邁ではあっても世の中を散々混乱させた後醍醐天皇の子孫は南北朝合一後、歴史の中に消えていき、病身で穏やかな性質の後深草天皇の子孫が今日も天皇の位を継いでおられる。一般化、抽象化は危険であるが、ちょっと考えさせられる歴史の皮肉かもしれない。
とりあえず、南北朝の歴史のおさらいはこの程度にして、話を明治の読売新聞の投書問題に戻したい。