南北朝正閏論について

  • 2020年5月4日
  • 2020年5月7日
  • 歴史
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南北朝正閏論とは

南北朝正閏論とは、鎌倉幕府の終わりから足利時代のはじめにかけて、「南朝の天皇」と「北朝の天皇」が同じ時期に二人並立したときがありましたが、どちらの天皇が正統かを論じる議論のことです。

 

ここでいう「正閏(せいじゅん)」とは、正統か閏統かということなので、正統でないほうは閏統ということになります。「閏」とは「閏年(うるうどし)」で使われていることからもわかるように、正統ではない、という否定のニュアンスの入った言葉です。否定のニュアンスは入っているものの、正統ではないだけであって、偽物ということではありません。

 

  • 「南朝の天皇」とは、後醍醐、後村上、長慶、後亀山の各天皇
  • 「北朝の天皇」とは、光厳、光明、崇光、後光厳、後円融の各天皇

ということですが、いずれの天皇も兄弟から分派した血族でお互いに縁戚関係にあり、血統的には天皇として疑問の余地のない方々であることは言うまでもありません。

 

そもそも、どちらの系統の天皇が正統かという正閏論が大きくクローズアップされたのは、歴史的には、次の二つのときです。

  • 江戸時代に、水戸藩の徳川光圀(いわゆる黄門様)が「大日本史」を編纂したとき
  • 明治時代に、国定教科書の記述をめぐって政府/議会を巻き込んで議論になったとき

いずれのときも、南朝の天皇が正統とされました。

 

明治の南北朝正閏問題

明治の南北朝正閏問題は、歴史教科書をめぐる論争です。

近年でも、「侵略」を「進出」に書き換えさせたかどうか、という昭和の歴史教科書問題がありましたが(wikipediaの歴史教科書問題)、明治の歴史教科書問題も、学術論争というより、さまざまな政治的な争いが背景にあったために発生した問題です。

当時の歴史教科書に対し、読売新聞が論難したことが問題の出発点です。

最初に結論だけ書いておくと、この問題は帝国議会を巻き込んでの政治議論に発展し、教科書編纂者は飛ばされ教科書から南北朝時代という言葉は消え、吉野朝(南朝のこと)時代という言葉になりました

では、そもそも当時の教科書には何が書かれていたのでしょうか。

 

国定教科書

当時(明治36年)の尋常小学校で使われていた歴史の国定教科書では、南朝と北朝は対等に扱われていました。

具体的にどのような表現になっていたのでしょうか。

第二十三 南北朝

これより吉野の朝廷を南朝と云ひ、京都の朝廷を北朝と云ふ。かくて天下の乱は遂に両皇統の御争の姿となり、戦乱五十七年の久しきに及べり。

『尋常小学日本歴史』(『南北朝正閏論纂』明治44年国学院大学皇典講究所14〜15ページより孫引き)

「両皇統」と軽重をつけない表現で、それらが争っているというのですから、南朝と北朝を対等に扱っていると言われればそうかもしれないと感じられると思います。

 

教師用に解説をつけた副読本があり、そこにははっきりと南朝と北朝に上下はないと書かれています。

南北両朝の対立は、遠くは安徳、後鳥羽の両天皇、近くは後醍醐、光厳の両天皇の同時に皇位にましませしと同じく、我が歴史上の一時の変態にして固より常例を以て律すべきに非ず。旧説或は南朝の皇位を認めざるあり、或は之に反して北朝を以て閏位となすありと雖も、要するに鎌倉時代に於て持明院大覚寺の両皇統の交互に皇位を継承し給ひしもの偶々時を同じくして南北に対立し給ひし一時の現象にして、容易に其の間に正閏軽重を論ずべきに非ざるなり

『教師用』(『南北朝正閏論纂』27ページより孫引き)

現代のわれわれからするとなんの違和感もなく受け入れられる表現ではないでしょうか。

これに対し、読売新聞は、南朝と北朝を対等に扱うと何がいけないと言ったのでしょう?

 

読売新聞

読売新聞は、南朝と北朝を対等に扱うと、

①唯一の皇統により万世一系のわが国が分裂していたと認めることになる

②「楠正成ら、南朝側の忠臣」と「足利尊氏ら、北朝側の逆賊」を対等に扱うことになる

といってその不都合を指摘しました。

「南北朝対立問題、国定教科書の失態」

尋常小学生に課すべき日本歴史の教科書に、文部省が断然先例を破って南北朝の皇位を対等視し、其結果楠公父子、新田義貞、北畠親房、名和長年、菊池武時等諸忠臣を以て、逆賊尊氏、直義輩と全然伍を同うせしめたるに在り

天に二日なきが如く、皇位は唯一神聖にして不可分也。もし両朝の対立を許さば、国家の既に分裂したること、火を見るよりも明らかに、天下の失態之より大なるはなかるべし

明治44年1月19日 読売新聞「論議」(松本清張『小説東京帝国大学』より孫引き)

 

実は、読売新聞のこの記事は、このときにいきなり発生したものではなく、前哨戦がありました。

それは、小中学校の校長を集めての国史講習会の場です。

講師は、当の歴史教科書を編纂した喜田貞吉という東大の先生です。もちろん、南北朝の並立を説明しました。これに対し、出席していた校長から、天皇が同時にお二人おられたということを子供たちにどう説明できるのかなどと質問攻めにしました。

歴史を実証的に研究しようとしていた史料編纂掛(現在の東大史料編纂所)は、客観的な事実を尊重しようとする姿勢を強めていました。

一方で、後醍醐天皇(南朝の代表的な天皇です)以来の天皇親政(建武の新政)の復活、天皇を頂点とする国体概念など大義名分論的な考えを持つ人たちも多く、両者に歩み寄りの余地はありません。

実証主義的な話をする喜田貞吉と大義名分論的な話をする校長とでは、そもそもの価値判断の基準が根本的に異なるので、着地点を見出すことはできないということです。

 

実は、読売新聞の記事は投書だったのですが、その投書主は、国史講習会で質問をした校長(東京富士前小学校長の峯間信吉)だったとのことです(松本清張『東京帝国大学』より)。

講習会での質問に満足せず、新聞への投書という行動に移ったということなのでしょう。もちろん、これを掲載する新聞社側も投書主の考えに賛同していたのだろうと思います。

 

政治の舞台へ

ただし、この投書が読売新聞に掲載されたときには、これが帝国議会を巻き込む政治問題にまで発展すると思った人はいなかったようです。

では、何が問題を大きくしていったのでしょうか。

  • まず、早稲田大学の講師である牧野謙次郎らが、大阪の代議士である藤沢元造に、この投書の問題点を指摘、衆議院で政府に対し質問させるようにしました。
なぜ、早稲田大学の牧野謙次郎らは、このような政治的な動きをしたのでしょうか。
国定教科書をめぐる私学と官学の争いが背景にあります。国定教科書になってその編纂が官学独占となり、それまで編纂に関わっていた私学勢が排除されてしまったのです。詳しくは
をご覧ください。
  • 次に、代議士・藤沢元造の動きを利用して、桂内閣を倒そうとする野党(国民党の犬養毅ら)が動きました。

犬養毅も最初は、南北朝時代の天皇のどちらが正統かなどという、カビの生えたような議論は学者が捏ね回しておけばよいと考えていたようですが、桂内閣の倒閣に利用できるとなれば別です。

大逆事件で死刑判決となった幸徳秋水ら社会主義者が「北朝天皇は南朝天皇を殺した。その北朝天皇の子孫(明治天皇のこと)を殺して何が悪い」といったようなことを裁判の場で話しました。すると、歴史教育がこのような犯罪者を生んだのではないか、という議論が生まれました。

こうなれば、南北朝正閏論という歴史教科書問題は、倒閣のための政治ツールに転化します。(詳しくは、明治の南北朝正閏論の決着 をご覧ください。)

 

  • 桂内閣は、藤沢元造の動きを押さえました。教科書編纂者であった喜田貞吉を休職に追い込み、教科書の南北朝時代を吉野朝時代に変更し、事態を収拾しました。

吉野朝時代という用語は、太平洋戦争で敗戦を迎えるまで続きました。

 

正統か閏統かの決め手

南朝の天皇と北朝の天皇のどちらが正統かという議論をするときの判断基準は何でしょうか。

どちらの系統の天皇も血統の面で有資格者であることは冒頭で述べたとおりです。

日本では、養子をとって後継者にするということが、たとえば江戸時代の商人階級などで行われていました。血筋に関係なく優秀な者に継がせるという極めて合理的な考えです。

中国の皇帝も、血筋ではなく、徳があるかどうかという能力的な基準で認められてきたように思われます。

天皇は、能力主義ではなく、血筋を当然の前提として、その承継が行われてきました。

 

血統面で勝負がつかないならば、誰か(先代天皇など)が後継者として認めるという考えもありえますが、古来、決め手とされているのは、三種の神器(鏡・剣・玉)を持っているか否か、のようです。

ただし、三種の神器は唯一無二の本物だけがあるのではなく、偽物(本物か偽物かの判別が困難なもの)が出てきます。
したがって、正確には、本物の三種の神器を持っているか否か、が正統か閏統かの判断基準となります。
しかし、三種の神器は誰も見たことがないので、この判断基準は、偽物が出てきた場合、どれが本物かわからなくなってしまうという欠点があります。

 

「南朝の天皇が正統なのは、本物の三種の神器を持っているからだ」と神皇正統記や大日本史などは主張しています。
しかし、本物の三種の神器かどうかの判定を客観的に行うことはできません。
大声では言いにくいのですが、神皇正統記や大日本史も、後醍醐天皇が「これが本物だ。あれは偽物だ」と言ったかどうかで、その三種の神器が本物かどうかを判断しているのが実態のように思われます。

 

そこで、本来は「正しい三種の神器を持った天皇が正統な天皇だ」と言いたいところですが、実際は「正しい天皇が持っている三種の神器こそが、本物の三種の神器だ」と考えるべき(本郷和人『空白の日本史』扶桑社新書79ページ)ということになってしまいます。
(「三種の神器は正統な天皇かどうかを判断する基準とはならない。何らかの価値判断により正統な天皇とされた方は三種の神器を本物かどうかを判断する力を持っているが。」ということだと思います。)

 

正閏を議論することの意義

南朝が正統か、北朝が正統かを議論したのは、歴史的には江戸時代の大日本史のときと明治時代の歴史教科書のときだと述べました(神皇正統記も激しく南朝正統を主張していますが、同時代の南朝当事者の弁のため、別扱いにしたいと思います)。

どちらかを正統、閏統と議論することの意義は何でしょうか。目的と言ってもいいかもしれません。

江戸時代の大日本史において南朝を正統としたのは、本物の三種の神器の継承者は南朝の天皇だからという理屈ですが、目的は徳川幕府の正統性を担保するためでした。

南朝の後醍醐天皇に忠節を尽くした新田義貞の新田家は徳川家の祖とされていました。したがって、徳川家にとって、南朝正統説はそのレーゾンデートルに直結します。(南北朝正閏論はポジショントーク?をご覧ください。)

 

 

では、明治の南北朝正閏問題において、正閏議論の意義、目的は何だったのでしょうか。

立場によって、さまざまだったと思います。

明治維新によって成立した天皇を頂点とする「国体」の護持を主張する人々にとっては、天皇に焦点をあてて正閏を議論すると言うよりは、その臣下の振る舞いに議論の焦点をあて、その反射的効果として南朝を正統、北朝を閏統とする傾向が強かったように思います。

足利尊氏は、自身が置かれた戦況次第で、北朝の天皇を自在に即位・廃位させました。主導権を臣下が持っているのです。これは天皇を頂点とする国体を護持しようとする人々にとって、都合が悪い、許されない振る舞いです。悪いのは、臣下(足利尊氏)であって、天皇(北朝)ではないのですが。
一方の南朝は天皇が主導権を握っています。その臣下は楠正成を代表に命をなげうち戦死していきます。
こういう図柄を前提にすれば、必然的に南朝正統説に傾いていくのではないでしょうか。

また、歴史の実証主義を標榜する喜田貞吉や田中義成(いずれも東大関係者です)らにとっては、南北朝の正閏を論じること自体が、朱子学由来の大義名分論に過ぎず、意味がないと思っていたかもしれません。

学者たちもこぞって議論に参加しているため、南北朝並立説だけでなく、南朝正統説、北朝正統説も主張されていました。ここらへんはもう少し深堀りしていきたいと思っています。

 

南朝正統説の悩み

南朝正統説を主張する人々にとっての最大の障害は、明治天皇はもちろん、南北朝が合一して以来、ずっと北朝の天皇が即位されているという事実です。現在の天皇は正統ではないのか、ということになってしまいます。

 

もっとも穏当な説明は、「後亀山天皇(南朝)は、本物の三種の神器を渡し、後小松天皇(北朝)が即位した。それ以来、本物の三種の神器を受け継いで即位されているから、歴代天皇は正統である。」というものでしょう。

確かに南北朝時代以来、三種の神器は本物かどうかという事件は発生していません。
本物の三種の神器を持っていることが正統な天皇であることを担保する、という原理原則にしたがえば、問題は見当たりません。

とはいえ、南朝正統説を唱える人にとって、現実の天皇が北朝の子孫であることは、どうしてもすっきりしないもやになっていることは間違いないと思います。

 

 

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