明治の南北朝正閏論争

要約

  • 読売新聞に端を発した明治の歴史教科書問題は、まず、東京帝大に対する私学勢の対抗心という学会の中の鍔迫り合いから始まる。
  • 次いで、桂内閣に対する犬養毅らの国民党による倒閣運動という政党の争いに飛び火する。
  • 最後は当時の元勲・山県有朋にまでステージが上がり、歴史教科書から南北朝という言葉は消えた。

早稲田大学での炉辺談話

明治44年1月19日の読売新聞に掲載された投書は、南北朝の取り扱いに関し、小学校の歴史の教科書を論難するものであった。つまり、南朝と北朝をどちらも正統なものとして並列させることはおかしい。南朝が正統であることは既定の話である、と。

この投書を早稲田大学の教員4人が教員室のストーブを囲んで話題にした。

漢学者3人に地理学者1人、いずれも早稲田の講師である。どんな話をしたのか。詳細はわからないが、そのあとの行動から推測すると、この投書に共感する内容であったことは間違いない。

ただし、全員が南朝を正統だと考えていたわけではない。その中の一人、地理学者の吉田東伍は名うての北朝正統論者だった。

しかし、今回の歴史教科書は、南朝正統論でもなく、北朝正統論でもない。いずれの皇統も正統だというのである。

もう少し正確にいうと次のとおりである。この歴史教科書の実質的な編者である東京帝国大学の喜田貞吉(きだ さだきち)によれば、「皇統は万世一系であり、これは通則である。しかしながら歴史には変則ということがある。その変則が南北朝時代である。臣民の立場から軽重はつけられない。ただし、将来、宮内省が正式な系譜を発表し見解が出ればそれに従うことはやぶさかではない。」というものである。

この歴史教科書の南北朝を並列的に扱う見解は、近代の実証主義歴史学から見ればおかしなものではないが、南朝正統論者から見ればおかしい。また北朝正統論者から見てもおかしいということになる。

純粋な歴史議論なのか

この議論、純粋に学術的な議論であったのだろうか。どうもそうではないようである。

東京帝大に対する私学勢の対抗心、不満である。不満というのは歴史教科書の執筆陣から私学勢が一掃されたことである。

ここで問題となっている尋常小学校向けの日本歴史の教科書は明治36年から使われており「国定」教科書である。政府が編纂している。

実はそれ以前は国定教科書ではなく、民間が出版する教科書が検定を受けて使われていた。民間教科書から国定教科書に変更された直接的なきっかけは、民間教科書の採用をめぐる贈収賄事件である(明治35年(1902年))。

民間教科書のときは、出版社もさまざまで執筆者も私学の教員が多く参加していた。しかし国定教科書になってからの執筆者は東京帝国大学の独占となった。

いつの時代でも教科書は隠れたベストセラーである。特に小学校の教科書は冊数が稼げる。学者としての見解の発表の場を小学校の教科書に求めていたわけではないだろうから、金銭面での不満が私学関係者に鬱積するのは想像に難くない。

金の問題だけではなく、プライドの問題もあったろう。当時の東京帝国大学と私学の扱いの差に対する不満がこれをきっかけに噴出したという側面もあろう。

もちろん将来を担う子どもたちへの思いという義憤もあっただろう。

当時の議論

読売新聞の投書をきっかけに、新聞、雑誌といった当時のメディアを舞台に南北朝論争が展開された。

当時の論争の状況を伺うものとして、「南北朝正閏論纂」という本がある。明治44年11月というタイムリーな時期に出版、國學院大学出身の山崎藤吉、堀江秀雄の両氏の編纂となっている。

その中で、「今日に於ける諸家の意見」という箇所があるが(この本全体は670ページという大冊であるが、その半分を占める)、この議論が始まって以来の当時の権威が新聞、雑誌等に発表した意見が紹介されている。

傾向を見ると、

①南北朝対立説としては、教科書の編者として紹介した東京帝大の喜田貞吉ら4名の意見が、

②北朝正統説としては、早稲田のストーブ談義の一人として紹介した地理学者の吉田東伍ら3名の意見が掲載されている(なおこの本では吉田東伍は文学博士として紹介されている)。

これに対し③南朝正統説は、早稲田のストーブ談義の一人として紹介した牧野謙次郎を始め、なんと総勢16名の意見が掲載されている。

南北朝正閏論纂(国立国会図書館デジタルコレクション)

(ページ数としては15〜16ページを見ていただくと、同書の該当目次を見ることができる。)

この本の編者が、明確に南朝正統論者の立ち位置を表明しているという点は差し引かなければならないかもしれないが、南朝正統説というのが当時の知識人のマジョリティ的な意見だったと見ていいと思われる。

東京帝大の考え方

では、当時の学会の最高権威である帝国大学の教授陣はどう考えていたのか。

少なくとも文科大学史料編纂掛(現在の東大史料編纂所)は南北朝対立説を唱えていた。両統とも正統である。

史料編纂掛から明治34年2月に出版された大日本史料第六編(田中義成編纂)では南朝と北朝の天皇および元号を併記する方針を取っている。両朝併記はこのときはじめて考えられたというより史料編纂掛の前組織である修史局の先人の考えを踏まえたものであった。

では帝大が両統とも正統と言っているにもかかわらず、なぜ教科書は南朝正統になってしまったのか。早稲田に負けたのか?

南北朝正閏論争は学術的な論争では収まらず、政治の世界に放り込まれてしまったのである。放り込まれたというより、読売新聞掲載の翌日には炎上確信犯が政治の世界に放り込んでしまったのである。

 

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