要約
- 南北朝正閏論争は政治のステージに移った。
- 早稲田大学の講師が代議士を動かし国会で教科書問題の質問演説をさせようとした。
- 世論も動き、犬養毅らも打倒桂内閣の材料にしようとした。
- 明治政府は、国定教科書の編纂委員を解職、教科書を改定した。南北朝は吉野朝に書き換えられた。
- 明治の南北朝正閏論は政治決着した。
政治の舞台へ
明治44年1月19日、読売新聞に歴史教科書批判の記事が掲載された翌日、早稲田大学でこの記事を話題にしていた漢学者の一人、牧野謙次郎は、早稲田大学の漢学主任教授の松平康国(やすくに)に相談した。
松平の従弟に藤沢元造(ふじさわげんぞう)という代議士がいたからである。藤沢をたきつけ国政レベルで問題にさせたかった。
藤沢元造は当時37歳、大阪府選出の衆議院議員であった。
父親は藤沢南岳といい、漢学者として泊園書院(はくえんしょいん)という塾を開いていた。関西大学の源流の一つとなっている錚々たる塾であった。
余談だが、この南岳、「仁丹」の命名者の一人である。
さて、藤沢元造は問題の教科書を読んだ。牧野の示唆も影響し、教科書の内容は国体を破壊し大義名分を没却しようとするものと考えた。
国会での質問演説へ
藤沢は迅速に動き、2月6日には衆議院に質問書を提出する。
提出された質問は、南北朝の争いは皇統の争いか、三種の神器と皇統の関係、楠木正成・足利尊氏は忠臣かなど、誠に古色蒼然としたものもあったが、核心部分は、国定教科書は皇室の尊厳を傷つけ教育の根底を破壊する恐れはないかという質問であろう。
当初、今さら大義名分論などと事態を軽く考えていた文部省、文部大臣も、新聞が世論を煽動し、議会も強硬な空気になってきたことで焦り出す。
藤沢元造に質問を取り下げさせようと試みるが、藤沢は態度を変えない。
ついに2月16日、藤沢は衆議院で質問演説することとなる。
藤沢は犬養毅ら反桂内閣の政治家にも協力を求めた。また伊勢神宮を参拝してあらかじめ身を清めるなどのパフォーマンスにも努めた。
事態の急変
そして、いよいよ質問演説の当日、なんと藤沢は質問するどころか、辞職願を議長に提出したのである。
何が起こったのか?
藤沢は議会で次のように釈明した。
私は昨日、総理と面談した。総理は私と同意見であり教科書を改定すると約束した。そうであれば、私の質問演説の目的は達成した。世間を騒がせたことに責任を感じ辞職することとした、と。
政権側の寝業で藤沢はひっくり返されたのである。
質問の前日、藤沢は桂太郎首相に密かに呼び出され、説得されてしまったのである。文部官僚らの説得工作は功を成さなかったが、桂にはほんの短時間で丸め込まれてしまった。
桂太郎は、老獪な政治家で、ニコポン、ニコニコしながらポンと肩を叩いて人を動かすのだ。そもそも政治家としての格が違ったのであろう。
桂にひっくり返されて以降の藤沢の言動には尋常でないもの(気が触れたような言動)があったという。
牧野らは大日本国体擁護団という団体を立ち上げ、この団体が藤沢を応援していた。
世間やマスコミ、またこういった支援団体からのプレッシャーに耐えられなかったのであろうか。
大した信念もなく、牧野謙次郎らに踊らされ、派手な役回りを演じていたに過ぎない藤沢は、牧野や大日本国体擁護団の連中にどう説明したらよいのかわからず、板挟みになってしまった。議員を辞職してその場を逃げ、さらに気が触れたようにでもしなければ、精神を正常に保てなかったのかもしれない。
牧野謙次郎は担ぐ人物を間違えたのである。
山県有朋の怒り
政府としては、国会での質問演説という矢は回避したものの、これで終わりというわけではない。
当時のメディアである新聞、雑誌は南北朝問題をしきりに取り扱い、国会では犬養毅を中心に弾劾決議案を議会に提出していた。
そしてなにより桂内閣のバックである元老山県有朋が怒り心頭に発していた。
とにかく早々に事態を沈静化させなければならない。
桂にとっての最大の頭痛の種は自身の後ろ盾である権力者・山県有朋の怒りだっただろう。
大逆事件
山県有朋はなぜ怒ったのか。この南北朝正閏論争が幸徳秋水の大逆事件に結びつけられることを恐れ、事態の早期収束を図れていない桂らに怒ったのである。
大逆事件とは、社会主義者の不穏な行動を取り締まるという名目で、おそらく当時としてもやや強引に幸徳秋水ら社会主義者が天皇爆殺を図ったとして、なんと24人が死刑となった事件である。
幸徳秋水ら社会主義者の取締りには山県有朋の強い意向が働いていた。
大逆事件の判決が新聞に報じられたのが明治44年1月19日。読売新聞に南北朝の国定教科書の記事が出た日と同じだった。
山県有朋としては社会主義者を強引に死に至らしめた大逆事件のことは、いつまでも世論にさらさせたくない。ただ、南北朝正閏論がそれにどう関係するのか。
大逆事件は天皇を爆殺しようとしたという嫌疑の問題であり、一方、南北朝正閏論は天皇の正統性の問題だ。天皇が関係するという点では共通するものの、本来、両者は関係がない。
しかし、幸徳秋水が裁判の場で、裁判長からなぜ尊い天皇を弑殺(しいさつ)しようとしたのかと問われ、北朝の天皇は南朝の天皇を殺し、三種の神器を盗んだ。そんな北朝の子孫の天皇を殺すのがそれほどの大罪なのかと答えた。
裁判上の論点などではなく、売り言葉に買い言葉的に出た発言だったようだが、これが世間に漏れた。南北朝問題と大逆事件が関連付けられ騒がれたのである。
南北朝正閏論争など山県有朋の関心の外であったろうが、大逆事件と関連付けられてしまった南北朝問題は早々に沈静化させる必要があった。
問題の処理
桂内閣は迅速に動き、2月27日、南北朝を並列表記した張本人である国定教科書編纂委員の喜田貞吉の職を解いた。
国定教科書は改定され、南北朝という表記は消えた。これまで使われていなかった吉野朝という言葉に置き換わった。南朝正統論で教育するということである。
教育の分野ではもちろん、学会でも南北朝正閏論は急速に議論されなくなる。
明治の南北朝正閏問題は決着したのである。
なお、吉野朝の表記は太平洋戦争で日本が敗戦を迎えるときまで続いた。
南朝正統論の浸透
幸徳秋水の大逆事件と南北朝正閏論争が関連付けられたと上に書いた。
南朝正統論者は、南朝の天皇が正統であり、それに従った楠木正成は忠臣、逆らった足利尊氏は逆臣と位置づける。順逆正邪を明確にする大義名分論の影響が強い。
北朝の天皇については正統ではない、歴代天皇に位置づけないと言うものの、臣下ではないのだから忠臣とか逆臣とかの議論の範疇に入らない。
そういう南朝正統論者からすると、南北朝並列論(南朝と北朝がともに正統な皇統)では、後醍醐天皇(南朝)に逆らった逆臣・足利尊氏は、(尊氏自らが擁立した)北朝の天皇には忠実だったわけだから忠臣とも位置づけられる。
南朝、北朝いずれも正統なのだから、一方に忠臣だった者は他方に逆臣である。
後醍醐天皇(南朝)にとって忠臣だった楠木正成は、北朝天皇から見れば逆臣になる。順逆正邪を厳格にするという観点からはいろいろ矛盾が生じてしまう。
だから、順逆正邪を誤った教育をすると順逆正邪の頂点にある天皇を弑殺しても構わないと考える輩が生み出されるというのが南朝正統論者の主張である。
しかし、である。
幸徳秋水は、南朝天皇を殺した北朝の子孫である明治天皇を爆殺することはそれほどの大罪なのかと言ったのであり、その根底の考えは南朝正統論のベクトルと同じくする。
だからこそ、幸徳秋水がその発言をしたとき、裁判官は黙り込んでしまった。
幸徳秋水に反論したければ、国定教科書の記述どおり南北朝並列論を主張すればよかった。北朝の天皇も正統だから、正統な天皇の子孫である明治天皇を弑殺してもよいというお前の考えは間違っていると。
臣下の順逆はさておき、天皇の正統性だけを論点にするのなら並列論のほうが幸徳秋水への反論になったとも言える。
しかし明治政府はそういう方法は取らなかった。やはり南朝正統論を崩すわけにはいかなかったのである。
南朝正統論は維新政府の根本的な立ち位置だった。
むしろ、そんな天皇の正統性を議論するようなこと自体を早々に封じなければならなかった。
なお、喜田貞吉が解職されたとき、東大から反対する動きは見られなかった。東大資料編纂掛こそ南北朝並列論の発信地であるにもかかわらずである。