南北朝正閏論はポジショントーク?

概要

  • 南朝、北朝はいずれも血統が正しく、それなりに継承の手続きを取っている。どちらが正統なのか、論理的に判定することなど困難。
  • 歴史上、南朝正統論のほうが声が大きい感じがするが、目的があって南朝正統を主張。いわばポジショントークのようなものではないか。

南北朝合一後の歴代北朝天皇

南北朝正閏論の系譜で、明治天皇を含む歴代天皇が北朝の系統なのに、明治時代は南朝正統論が主流なのが不思議だと書いた。

これは昔から南朝正統論を主張する人々を悩ませた問題だったようである。

解決策の一つは、次のようなものだ。

  • 南朝と北朝が分裂していたときは、南朝が正統で、北朝は閏統(正統でない系統)である。
  • しかし、南北朝が統合されたとき、すなわち南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇へ継承されたとき、正式な継承がなされた。
  • だからこれ以降の北朝の歴代天皇は明治天皇も含め正統であり問題はない。

一時的に分岐していたときの北朝は閏統だったが、それ以降の天皇は正統というもの。

それはそのとおりかもしれないが、うーん、それだけだと先人は一体何を議論してきたのか? という気持ちになる。

三種の神器

この解決策のポイントは、後亀山天皇から後小松天皇に正式な継承がなされたということにある。正式な継承とは三種の神器を渡しての継承ということだ。

北朝の各天皇は血統面で問題になるところはない有資格者だ。

正統の天皇と閏統の天皇、いずれも血統に違いはないとしたら、区別はほかのところに求めざるを得ない。それが三種の神器を渡しての継承か否かによる区別であった。

後亀山天皇は南朝に伝わっていたホンモノの三種の神器を渡して後小松天皇へ継承したから、ここから以降の北朝の歴代天皇はすべて正統、というロジックである。

三種の神器はありがたいものとは言え、即物的なモノの授受で決まってしまうのはいかがなものかと感じてしまうのは現代人だからだろうか。

この考えの弱みは、あえてカタカナ書きしたようにホンモノの三種の神器が渡されていたらという(まず間違いなく)フィクションに依拠していることだ。

歴史上の議論

そうなると南朝、北朝いずれが正統でいずれが閏統かという正閏論は、何を基準に考えるべきなのだろうか。

ここで過去の振り返りをしてみたい。

過去、代表的な論者は何を根拠、基準に正閏を区別していたのか。

南北朝正閏論を考える際、頭に思い浮かぶ代表的な著作は、

  • 神皇正統記(じんのうしょうとうき)
  • 太平記
  • 大日本史
  • 日本外史

である。

太平記は戦記物語だしいろいろ面白そうなのでちょっと別に扱いたい。

残りを以下に記すが、いずれも強烈な南朝正統説の牙城のような存在だ。

ちょっとイデオロギー臭を感じると言えば偏見だろうか。

南朝は滅び去った系統である。滅び去った系統が正統だとするロジックにはどこか「負け惜しみ」、「タテマエ」の要素が入らざるを得ない。本当は正しいのに・・・という論理だ。

気分の問題かもしれないが、そんな気がしてならない。

北畠親房の神皇正統記

まずは、最初の南朝正統論者である北畠親房の神皇正統記(国立国会図書館デジタルコレクション)だ(Wikisouceのテキストファイルはこちら)。

 

神皇正統記は、有名な「大日本(おおやまと)は神の国なり」という言葉から始まる。

神武天皇から後醍醐天皇、後村上天皇まで、歴代天皇の事績の解説書である。

三種の神器を受け継いでいる南朝が正統だとしている。

ただし、著者の北畠親房がどういうポジションにいた人物か、ということを忘れてはならない。

北畠親房は後醍醐天皇の秘蔵っ子の一人で、リアルタイムでの南朝側の当事者なのである。

神皇正統記を書いた動機も、かつては後醍醐天皇崩御後、南朝の正統性を証明するために書いたとされていたが、現在では北畠親房が関東にいたとき、関東の武士団を南朝側につけるための説得材料として書かれたものとされている。

これが説得材料になるのかと思われる著作であるが(実際、関東の武士は説得されなかった)、いずれにせよ、どんな論拠を述べたとしても色眼鏡で見てしまう。いわゆるポジショントークをしていると思ってしまうのだ。

 

大日本史

神皇正統記が最初に南朝正統論を言い出した書物なら、この大日本史は日本の歴史上、南朝正統論を決定づけた書物と言えるかもしれない。

水戸光圀はなぜ南朝正統論を展開したのだろうか。

それは徳川幕府の正統性を主張するためだった。

 

  • 徳川氏は新田氏の一族である。
  • 新田氏といえば、足利尊氏に破れた新田義貞だ。
  • 新田義貞は、南朝側に殉じた。
  • 新田氏の一族である徳川氏が新たに幕府を開いた。
  • 徳川幕府の正統性を担保しようとすれば南朝が正統でなければならない。

 

そうすると、ここでも南朝正統論の動機は徳川幕府という自らの体制擁護のためだ。

水戸光圀も、徳川政権という自らの体制擁護のためのポジショントークをしていたのだ、と感じる。

一定の目的、動機があって南朝正統論を主張した。ニュートラルな立場で、なにか客観的な判断基準・ロジックを使ったわけではない。

客観的な判断基準などあろうはずもなく、実際に南朝正統論で使われているロジックは三種の神器や大義名分論である。

三種の神器は証明のしようがない話だし、大義名分論は建前論に流れやすく煙(けむ)に巻くような議論になりやすい。

頼山陽の日本外史

そして、幕末の大ベストセラーであり、維新の志士たちに強い精神的影響を与えたとされる頼山陽に日本外史も、南朝正統論である。

のち、頼山陽は正閏は神器の授受ではなく「祖宗の意、天人の心の向背」(天皇祖先の意向や天意・人意にそむくかどうか)によるなどと言っている。南朝正統説を心から信じていたのかもしれない。

ところで、ここまで書いてふと思ったことがある。

水戸光圀は江戸幕府の正統性を立証するために南朝正統説の大日本史を編纂させた。

頼山陽は文筆家として南朝正統説をベースに波乱万丈の武家列伝、日本外史を著した。

大日本史において徳川幕府の正統性を守るために唱えられた南朝正統説が、日本外史においては徳川幕府から天皇への大政奉還を促進する方向に強く働いた。

南朝正統説はどこかで変質したのだろうか。

最新情報をチェックしよう!