前回の最後で言いたかったことを繰り返す。
南北朝の正閏議論において、水戸光圀の始めた大日本史が果たした役割は大きい。南朝正統論を決定づけた書物だ。
黄門様こと水戸光圀が、大日本史で南朝正統論を押し出したのは、徳川幕府の正統性を証明するため。
徳川の祖は新田氏なので、その新田氏が殉じた南朝が正統であり、新田氏と対立する足利幕府が支えた北朝は閏統というわけだ。
しかし、この大日本史、黄門様の意図をはなれ変質していく。
真逆の、徳川幕府を倒す思想的論拠に変わってしまうのである。
大日本史
水戸の徳川光圀によって始められた国史である。光圀が水戸藩主になったのは四代家綱のとき、江戸時代も前半の頃だ。
漢文で書かれた膨大な歴史書なので、研究者でもなければ読んだことのある人は少ないだろう。
大日本史は、人物ごとにその事績を記述する紀伝体という様式で書かれている。
中心は、天皇の事績の記述である本紀という部分だが、江戸時代の天皇まで書かれているわけではない。神武天皇から南北朝が統一された後小松天皇までが書かれている。
大日本史は、この本紀に加え、皇后などの事績を書いた列伝や各種の制度を記述した部分もあり、全397巻226冊と大部なもの。始めたのは江戸時代前半だが、完成はなんと明治39年になってからという。
ただ、本紀の主要部分は光圀生前にはできていたらしい。
大日本史の論賛
紀伝体の代表は司馬遷の史記だが、史記には、「太史公曰く」と史実に対し司馬遷が論評する箇所がある。これを「論賛」という。
そして大日本史にも論賛がついていた。
歴代天皇の得失を論じている項目である。
日本では天皇に対する尊敬、尊重の態度を当然とした上で、結構自由に論評できる風土がある。
古事記で雄略天皇がたくさんの後継者を亡き者にしたことを率直に書いてある。
大日本史にも、率直に歴代天皇の得失を記述する論賛がついていた。
論賛の削除
しかし、この論賛を削除すべきではないかという議論が出てきた。
中国は王朝が交替することを前提にしている。前王朝の徳が失われれば、天は新王朝に移行させる。そして新王朝は前王朝の非をあげつらう。史伝の論賛部分では前王朝の得失(主に「失」)が論じられる。
一方、日本は万世一系、王朝交替はない。新旧王朝の概念もないし、徳が失われたこともない。だから、歴代天皇の得失を論じるとは何ごとか、不敬ではないか、という議論だ。
藤田幽谷(ふじたゆうこく)という原理主義的な切れ者が仕掛けた議論である。
結局、大日本史から論賛は削除された。歴代天皇の得失の論評が削除されたのである。
それがどうした? という感じだが、実は論賛の削除には重大な意味が隠されていた。論賛の削除とともに、南朝の正統性に付随して担保されていた徳川幕府の正統性も削除されてしまったのである。
国体概念の浮上
もともと大日本史では、
「南朝ー新田氏ー徳川氏」の正統 > 「北朝ー足利氏」の閏統
として徳川幕府の正統性を主張したかったわけだが、論賛の削除によって天皇の得失(主に「失」)がなくなった。
天皇の絶対性が強調されることになり、それが「天皇とそれ以外」という構図が浮かび上がらせた。
これが何を意味するのかというと、「支配階級である武士」と「被支配階級である一般庶民」が、「天皇以外という一括り」に観念的にまとめられてしまったのである。
天皇から見れば、武士も農民も商人も変わらないという視点を世間一般に与えてしまったのである。
万世一系の天皇をいただく日本という国柄、「国体」概念の登場である。
今では右翼的な印象でしか語られない「国体」であるが、天皇の存在が日本の歴史と他の国の歴史を画する特徴であることは否定できないと思う。
藤田幽谷のお弟子さんである会沢正志斎(あいざわせいしさい)は、新論という本で、国体という言葉、概念を登場させた。
藤田幽谷の息子の藤田東湖は、弘道館記という本で、尊王攘夷という言葉を登場させた。
明治維新に突入する思想面での準備が完了した。
大日本史を編纂した水戸藩は、思想面での準備だけでなく、実践面でも活動する。活動を止められなかったといった方が正確かもしれない。
藤田幽谷の孫、藤田小四郎は尊王攘夷を旗印に水戸天狗党の乱を起こす(1864年)。
その数年前、桜田門外で大老井伊直弼を殺害したのも水戸藩の脱藩者であった。
参考文献
兵藤裕己『太平記〈よみ〉の可能性』講談社学術文庫
哲学的な用語も使用され少し難しいが、副題どおり「歴史という物語」を読み解くプロセスに知的興奮を感じさせる本。
大日本史が光圀の手を離れ、ついには倒幕の理論的根拠としてテキストが読み替えられていく過程に目を開かれた。
太平記は、書物として読まれるというより、太平記読みという講釈や芝居を通じて読まれてきた。当時のメディアである講釈、芝居の影響力は大きく、これで認知された南北朝史の物語が現実の歴史を規定していくのだ、と。