持明院統(北朝)の分裂

皇統が南朝と北朝に分かれ、武士もそれぞれ分かれ混乱の時代が続いたが、南朝の中でもさらに皇統が分裂し、北朝の中でもさらに皇統が分裂した。

光厳天皇の息子たち

鎌倉幕府の執権・北条高時によって擁立された北朝初代の天皇が光厳天皇だが、その息子の代で二つの皇統にわかれた。

ちょうど、後嵯峨天皇の息子の代で、持明院統(北朝系統)の後深草天皇(兄)と大覚寺統(南朝系統)の亀山天皇(弟)の二つにわかれたように、兄弟で対立し皇統がわかれる例が多いようだ。

崇光天皇と後光厳天皇

分裂したのは崇光天皇(兄)と後光厳天皇(弟)。もともと父である光厳天皇は兄の崇光天皇の系統で継がせようと考え、実際そのようになっていた。

当時(1351年、正平6年)、北朝方では、光厳上皇、その弟の光明上皇、そして崇光天皇、その皇太子の直仁(なおひと)親王がおられた。

しかし、北朝方のバックボーンであった足利尊氏が、なんと南朝の後村上天皇(後醍醐天皇の次の南朝天皇)に降伏したのである。その条件として北朝の崇光天皇、直仁親王が廃されてしまった。つまり、崇光天皇は上皇となり、直仁親王は廃太子となってしまった。

足利尊氏が南朝に降伏した理由は、弟の足利直義(ただよし)との戦が激しくなり、南朝方に軸足をおいていた直義征伐のための綸旨(りんじ。天皇からの命令)を出してもらうためだった。

これで北朝は天皇不在の状態となってしまう。

これを正平一統(しょうへいいっとう)という。正平とは南朝の年号で、当時、北朝では観応という年号が使われていたのだが、北朝の天皇を廃し、南朝の年号に統一されたために正平一統という。

ちなみに、足利尊氏と足利直義の兄弟争いを観応の擾乱というが、観応は北朝年号である。

北朝の混乱

北朝の不運はこれで終わらなかった。

まず、南朝の後村上天皇は北朝にある三種の神器を南朝に引き渡させた。理由としては虚器(にせもの)なのに、その虚器で践祚(せんそ。天皇の地位の承継)をしているからと言うことだ。

本物か偽物かについては、本当のところはわからない。むしろ、本物を渡してしまったから返せと言っている方が自然だ。

さらに、翌1352年(正平7年)、南朝軍が京都を攻め、光厳上皇、光明上皇、崇高上皇、直仁廃太子を南朝陣営に連れ去ってしまった。

光厳、光明、崇高の三上皇を連れ戻す交渉もしようとしたようであるが、南朝方は、三上皇を南朝の本拠地である賀名生(あのう。現在の奈良県五條市)に連れて行ってしまったため、引き戻しは困難となった。

京都には、継承に必要な三種の神器も、皇位を与える資格のある上皇もいなくなってしまった。

万事休すである。

南朝側の意図は、幕府存立の名分を奪うことであるが、天皇がいなくなってしまうと、幕府以上に困るのは、朝廷・貴族だ。幕府にとっては天皇は権威付けに過ぎないとも言いうるが、朝廷・貴族にとっては存立基盤そのものだからだ。

新天皇(後光厳天皇)の擁立

北朝サイドは、新しい天皇を担ぎ出すしかない。

足利義詮(よしあきら。足利尊氏の子供で、室町幕府二代目将軍)は、光厳上皇の第三皇子で、仏門に入る予定だった弥仁王(いやひとおう。のちの後光厳天皇)を担ぎ出す。当時15歳。

本来、上皇(正確には治天の君と言われる実権のある上皇)が皇位を与えるのだが、上皇がいないため、祖母に当たる広義門院(こうぎもんいん)が代わりに手続をした。

三種の神器はないので、神鏡の容器を代わりに使った。

正統性についての議論ができてしまう状況だと思うが、とにかく後光厳天皇が誕生した。

三上皇の京都帰還

これで終わると北朝は後光厳天皇の子孫に継がれていくということになるはずだが、そうはならなかった。

1357年(延文2年)、三上皇(光厳、光明、崇光)が許されて京都に戻ってくることになったのである。

兄の崇光にしてみれば、仏門に入る予定だった弟の後光厳が天皇であることが気に食わない。

弟の後光厳にしてみれば、崇高は京都に戻る際、崇高の子孫の皇位継承権を放棄することを南朝と約しているのだから何をいまさらとなる。

後光厳の系譜

歴史はどう動いていくのか。

弟の後光厳の系統で北朝は継がれていく。後光厳の次は、後円融で、その次は後小松である。

そして、後小松天皇誕生のときに、足利義満による南北朝合一が行われた。

南朝の後亀山天皇が、正式の三種の神器を引き渡して後小松に受け継ぎ(1392年、明徳3年)、60年弱続いた南北朝時代は終わり、一つの皇統に戻った。

これで、崇高サイドに対する後光厳サイドの勝利が確定するはずだった。

崇光の系譜

しかしそうはならなかった。

後小松天皇の次の称光天皇に跡継ぎがいなかったのである。

ようやく、崇光サイドに光があたった。崇高天皇のひ孫の代にあたる後花園天皇が称光天皇のあとを継ぐ。

ただし、単純に事が運ばれたわけではない。

後小松上皇が治天の君(天皇家の実権者)のとき、後花園を猶子(ゆうし。自分の子として迎えること)にし(1425年、応永32年)、御小松自身の子に継がせる形にした。

とは言え、皇統が混乱した南北朝は、結局のところ、北朝の崇光天皇の系譜で収束したのである。

 

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