幕末、水戸で天狗党の乱という内戦があった。
明治維新の思想的原動力となった尊王攘夷という概念を作り出しながら、明治になって政府の顕官を一人も出さなかった水戸藩。
天狗党の乱という「総力戦」を藩の中でやってしまったので、歴史的にはもぬけの殻になってしまった水戸藩。
「魔群の通過」は、そんな天狗党の乱を描いた山田風太郎の幕末ものの傑作だ。
天狗党の乱をきっかけに運命を翻弄される人々、単純な善悪の決めつけを拒否するそれぞれの人の立場、すべてを洗い流していく時(とき)の流れ、その中でたくましく生きていく人々。これらの人間模様を淡々とした熟達の筆致で描いている。その筆致は忍法ものと同じで、いつもどおり抜群のリーダビリティを誇る。
魔群とは、もちろん天狗党のこと。魔群の通過とは、常陸国(茨城県)から京都を目指して西上する天狗党を道中の藩や人々がおそれて通過させていくさまをあらわしたものである。
天狗党の乱の発端
当時15歳で天狗党に参加した武田源五郎という少年が、この乱を生き延び、30年後に福井県の史談会で当時を回想するという形式で語られる。
物語は幕末の元治(げんじ)元年(1864年)、水戸で始まる。
天狗党という幕府の開国方針に不満を抱く一派が、元治元年、筑波山で示威運動を起こす。
首謀者は藤田小四郎(こしろう)という。後期水戸学の中心・藤田東湖の息子だ。
この示威運動は、幕府に攘夷の実行を迫ろうとしていたのであって、倒幕を目指していたわけではない。
これに対し、江戸にいた水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)は、支藩の宍戸藩主・松平大炊頭(おおいのかみ)に天狗党の鎮圧を命じる。
武田耕雲斎
松平大炊頭の軍が水戸に乗り込む際、たまたま武田耕雲斎(こううんさい)の軍といっしょに乗り込むこととなった。
武田耕雲斎は水戸藩元家老で、やはり天狗党の一人であるが、藤田小四郎の行為には賛同していなかった。
同じく攘夷派なのだが、単独のはね上がりでは成功しないのみならず、水戸藩を困難に陥れる。水戸の藩論を一つにしてこそものになると考えていた。
武田耕雲斎は、この物語の話者・武田源五郎の父親だ。
武田耕雲斎は、天狗党本来の意図を幕府に陳情しようと江戸に行こうとしたが、藤田小四郎の筑波戦乱の余波で進めないでいたところ、松平大炊頭の軍と出会い、いっしょに水戸に引き返すことにした。
水戸に入れず
ここで最初の運命の歯車のかけ違いが起こる。
水戸藩主の名代(みょうだい。代理)として、天狗党(藤田小四郎)鎮圧のために水戸に乗り込もうとした松平大炊頭を水戸藩は追い返してしまったのだ。
市川三左衛門という強硬派がいたためである。
松平大炊頭を水戸に入れないということではなく、いっしょについてきた(天狗党の)武田耕雲斎を入れないためであった。
水戸藩では、「天狗党らの攘夷派」と「市川三左衛門らの佐幕派(諸生党ともいう)」は、先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の時代から因縁の確執を続けてきた。
一方、宍戸藩主・松平大炊頭は当時30歳半ば、明朗、素直な青年大名で、水戸藩のこうした「攘夷派(天狗党)」、「佐幕派(諸生党)」のドロドロした確執を知らなかった。
水戸藩は松平大炊頭の軍に鉄砲を撃ち込んだため、松平大炊頭もやむなく対抗、これに藤田小四郎の軍が加わった。
水戸・幕府連合軍 VS 松平・天狗党
ややこしい状況になった。
- 天狗党は、藤田小四郎と武田耕雲斎。ただし、実際に乱を起こしていたのは藤田小四郎で、武田耕雲斎は天狗党の考えを幕府に説明しようとしていた。
- 藤田小四郎の天狗党の乱を抑えるために、水戸藩主の命を受けた松平大炊頭。
- 本来、松平大炊頭といっしょに動くべき市川三左衛門率いる水戸軍と幕府の連合軍。
水戸藩の中の「攘夷派(天狗党)」と「佐幕派(諸生党)」の確執を深刻に考えていなかった松平大炊頭が、攘夷派(天狗党)の武田耕雲斎といっしょに水戸に入城しようとしたために、佐幕派(諸生党)の市川三左衛門が過剰に反応した。
その結果、松平大炊頭は、本来、征伐の対象であった天狗党と組んで、水戸・幕府連合軍と戦うはめになってしまったのである。
松平大炊頭の投降
市川三左衛門の水戸・幕府連合軍は6万の軍勢、対する松平大炊頭と藤田小四郎・武田耕雲斎の天狗党は3千の軍勢だが、一進一退の戦いが続いた。
と突然、松平大炊頭が水戸・幕府連合軍に投降してしまったのである。
もともと松平大炊頭は水戸藩主から命じられて天狗党を鎮圧するために軍を起こしたのだから、天狗党といっしょになって幕府軍と戦うことなどありえないことだった。
市川三左衛門が水戸に入場させないので、行きがかり上、天狗党といっしょになって、水戸・幕府連合軍と戦うはめにおちいってしまっただけだ。
そこで、旗本の目付で戸田五郎という人が、ひそかに投降すれば自分が責任をもって幕府に弁明するため江戸に帰れるよう取り計らうと言った。
松平大炊頭は投降する。そして江戸への道を急ごうとしたとき、水戸にいた幕府軍の総督・田沼玄蕃頭(げんばのかみ)が松平を水戸に呼び戻す。そして松平大炊頭を反乱の罪で切腹させたのである。
これを読むと、戸田五郎が謀ったのかと思ってしまうが、実は戸田五郎は全くの善意で松平大炊頭を説得し、あらかじめ田沼玄蕃頭にも作戦を報告していた。
山田風太郎によれば、これに似た行為は存外日本人に多いという。相手と約束したことを、その上司が部下の手ちがいと言って、そ知らぬ顔をする、あるいは折衝の結果中央が相手と確約したことを、出先の者が平気で破る。古来、契約ということに日本人は、はなはだ鈍感だと指摘している。
必ずしも日本人向けの一般化には賛同できないが、こういったことを平気でできる人間が日本にいたこと、いることは事実だろう。
ちなみに田沼玄蕃頭は、悪名高い田沼意次(おきつぐ)の六代目にあたる人物だ。
天狗党、上洛を目指す
さて、主将格の松平大炊頭が投降してしまっては、藤田小四郎・武田耕雲斎の天狗党一派の意気は上がらない。
もともと那珂湊(なかみなと)を拠点に戦っていたが、ついには常陸北端の大子村(だいごむら)まで追い詰められた。
ここで白旗をあげるかどうかという窮地に追い込まれたとき、彼らは新たな行動目的を見つけ出した。
人は新たな目的を見つけ出すと、前後を考えずにそれに向かって猛然と動き出す。新たな目的に向かって行動することで、白旗をあげるかどうかという悩みを頭から追い払えるからである。
彼らは京都にいる徳川慶喜(よしのぶ)に会って、攘夷の志を聴いてもらうという目的を見つけ出した。
徳川慶喜は、水戸の先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子であり、徳川斉昭は天狗党の考えに好意的であった。
千人ばかりになった天狗党は常陸(茨城県)から野州(やしゅう。栃木県)、上州(群馬県)、信濃(長野県)、美濃(岐阜県)と上洛の大行軍を開始する。
「魔郡の通過」はこの大行軍の物語である。