前期水戸学と大日本史

  • ここでは、江戸時代の水戸藩で生まれた水戸学という学問、その中で前期水戸学と言われるものについて説明します。
  • 水戸光圀が始めた「大日本史」のについての説明、その思想が中心です。
  • 冒頭、少し、幕末の天狗党の乱にひっかけて説明を開始します。

 

天狗党の乱の淵源

幕末の天狗党の乱は、水戸藩の中での攘夷派と諸生党の対立が生んだ悲劇だった。

最後は正義も思想も打算もなく、単なる殺し合いになってしまったが、その対立の淵源は、江戸中期にまでさかのぼる。

そして、この対立の淵源には、水戸藩で大日本史の編纂に関与した人々の、編纂方針に対するスタンスの違いが関係する。

ひとことで言えば、思想を突きつめる立場とそうでない立場の違いだ。そうでない立場というと悪く聞こえるが、現実路線、または現状に柔軟に対応するスタンスとも言えようか。

この大日本史の編纂に起因して、水戸学という思想体系が成立する。

 

水戸学とは

水戸学は、前期と後期にわけて論じられる。

前期と後期にわけるのは、前期は江戸初期に発生したもので、後期は幕末に議論されたものというように時代の間隔もはっきりわかれていることに加え、明確に思想の変質が起こったからである。

変質を起こさせたのは、時代の変化、直接的には列強の進出という現実だろう。

なお、水戸学という言い方もそれを前期と後期にわけるというのも、後代の講学上の概念である。

 

  • 前期水戸学は、江戸時代初期の光圀時代の思想を指す。

 

  • 後期水戸学は、江戸時代中期の藤田幽谷(ゆうこく)に端を発し、幕末の藤田東湖(とうこ)らが考えだした思想を指す。

藤田東湖は藤田幽谷の息子であり、天狗党の乱を起こした藤田小四郎(こしろう)の父親だ。

 

  • 江戸時代中期の藤田幽谷のときに、大日本史の編纂をめぐって対立があり、それが天狗党を生み出した攘夷派と敵対する諸生党の対立につながっていく。

 

前期水戸学 水戸光圀の大日本史

水戸藩の二代目藩主、水戸光圀が大日本史の編纂を開始した。

司馬遷の史記に影響されたという。

その少し前、幕府は林羅山ら公認の儒家に本朝通鑑(ほんちょうつがん)という修史事業をさせていた。

にもかかわらず、水戸藩独自で修史事業を始めたということは、光圀が本朝通鑑に満足していなかったことのあらわれだろう。

本朝通鑑に「天皇の祖先は呉の太伯である」と書いてあることに光圀が憤慨したため、というのが昔から言われてきたことだが、本朝通鑑にそんな記述はないらしい。

 

彰考館

光圀は、江戸の水戸藩邸に彰考館という修史編纂所を設けた。

歴史の編纂には、書物などの記録収集が不可欠である。貴族、社寺に頼んで、日記や記録類を集めなくてはならない。それがまず難航した。

 

林羅山らによる本朝通鑑は、幕府の命により官憲の力を借りたが、それでも思うように集まらなかったという。

我々は今日、歴史に関する膨大な史料書籍に恵まれているが、先人の、そして今日でも地道に古文書を読み解き、歴史を築き上げてきた専門家の学恩に感謝すべきだろう。

光圀は安直に大日本史を完成させることなど念頭になく、本紀(天皇の人物史)、列伝(皇后等の人物史)、志・表(各種の制度史、年表など)と万全の国史を作り上げることを考えていた。

実際、大日本史の完成は明治になってからである(明治39年)。

 

尊皇思想

大日本史をつらぬくスタンスは尊皇で、万世一系の皇統を中心に歴史を描くことだ。

 

そして描く際の価値判断の基準は「皇統を正閏し、人臣を是非す」

天皇の血統について、正統と閏統(閏年の「閏」なので、傍流的な意味合い)を分別する。

臣下については善し悪しを明らかにする、ということだ。

 

皇統の正閏

これに関し、光圀の大日本史が判断したのは、次の3点である(三特筆と言われている)。

  • 神功皇后は天皇ではなく、皇后である。
  • 壬申の乱で天武天皇に敗れた大友皇子は、天皇の即位していた。
  • 南朝と北朝の正閏論争に関し、南朝が正統、北朝は閏統である。

 

神功皇后

神功皇后は、応神天皇の母親で、新羅遠征で有名だ。応神天皇をお腹に抱えながら遠征したという。

応神天皇がお生まれになったあとも、69年間摂政を続けた。

たいへんな方だが、天皇の位に就かれたのか、摂政のままであられたのかが、わからない。

扶桑略記や常陸風土記、また山鹿素行の中朝事実などでは天皇と記されている。

日本書紀でも、天皇とまでは書かないが、天皇と同格の取扱いをしている。

しかし、光圀は、神功皇后の文武両面でのご功績は認めつつも、大義名分という尺度で見れば、よろしくない。

応神天皇がおられるにもかかわらず、69年間も摂政を続けたのはよろしくないとして、神功皇后の事績は、本紀に収めず、列伝に収めた。

 

大友皇子

大友皇子は、天智天皇の子供で、天智天皇の跡を継いだ。

正確には、天智天皇は生前、弟の天武天皇(そのときは大海人皇子)に次を継がせようとしたのだが、天武天皇が辞退して奈良・吉野に引っ込んだので、息子の大友皇子が跡を継ぐことになった。

しかしながら、天武天皇は、天智天皇の死後、吉野から軍を起こし、現在の関ヶ原で、大友皇子を破り、天皇となった。壬申の乱である。

「天武天皇は〜大友皇子を破り」と書いた。そうであればよいのだが、大友皇子は天皇に即位しており、その天皇を天武天皇は破ったのではないか、と光圀は読んだのである。

天皇を弑するのは大逆(人の道義にそむく最悪の行い)とされている。

だから、日本書紀など主だった歴史書には大友皇子が天皇に即位したとは書いていない。

一部、懐風藻、水鏡にそれらしき記述があるだけであった。

神功皇后の場合とは逆に、古来、天皇とはされていない方を天皇として、本紀の中に入れた。

 

南北朝正閏論

彰考館で大日本史の編纂にあたった史家の中で、もっとも議論になったのが南北朝時代の南朝と北朝の問題である。

 

南北朝時代と同時代の北畠親房の神皇正統記は、強烈な南朝正統派であるが、そもそも南朝の臣下が書いたものなのだから、客観的な意見とは言い難い。

それ以外は、洞院公賢(とういんきんかた)の日記である園太暦(えんたいりゃく)など公家の記録、興福寺、東寺、鎌倉建長寺など寺社の記録、また室町中期に成立した国語辞典である節用集も北朝を正統としている。

江戸時代の前までは、世間は一般に北朝が正統と信じられていたとされている。

現におわす天皇が北朝系統であることを考えると、わざわざ南朝を正統と主張する立ち位置をとるメリットはないし、南朝側の記録はおそらく大量に抹消されたであろうことを考えると、議論の材料も少なかったのではないかと思われる。

 

では、そういった中、光圀はなぜ南朝正統論を主張したのか。

 

大日本史の主張は、三種の神器を所持していたのが南朝だったというものである。

そして、そのバックボーンにあったのが、南朝に殉じた新田氏の系譜を受け継ぐ徳川家の体制擁護であった。(詳しくは、南北朝はポジショントーク?をご覧ください。)

光圀は、間違いなく尊皇派であったが、徳川幕府を否定する考えは持っていなかった。

 

朱舜水

光圀の南朝正統論に多大な影響を与えたものとして、お隣の明から来た朱舜水がいる。

漢民族の王朝である明が、北方女真族の清に破れ、明の遺臣たちは日本に助けを求めに来た。三代将軍・徳川家光は大陸に援軍を出すかというところまでいった(結局、援軍は出さなかった)。

光圀は、朱舜水を水戸に招き、いろいろ教えを請うた。

朱舜水は日本の南北朝の歴史を知り、南朝が正しいと考えた。異民族の清に破れた明、明を再興しようとする明の遺臣たちという図式を、北朝に破れた南朝、南朝を再興しようとする楠木正成らという図式に見立てた。

清と明は、北方異民族の王朝と漢民族の王朝の関係であり、北朝と南朝は、どちらも皇統の血を継ぐ朝廷なので、この対比はパラレルなものではないと思われるが、朱舜水はそうは考えなかった。光圀も朱舜水の考えに納得したのだろう。

 

人臣の是非

人臣の是非、すなわち臣下の善し悪しは、本紀列伝の列伝のほうに書かれている。

列伝は、皇妃列伝、皇子列伝、皇女列伝とあり、その次に群臣列伝の順番になる。

皇統中心の歴史なのだから、こういう順番になる。

 

群臣列伝に具体的にどういう人物が書かれているかを見ると、藤原鎌足、大伴家持、菅原道真などに続き、南北朝関連では、楠木正成、楠木正行、名和長年、児島高徳、菊池武時、新田義貞といった南朝の忠臣が並ぶ。

源頼朝や足利尊氏らの征夷大将軍は、群臣列伝の次の将軍列伝で取り扱われる。

また元寇の国難を救った北条時宗は、さらにその次の将軍家臣列伝で取り扱われる。

あくまでも、天皇を頂点とする朝廷での序列を視点にしたものである。

 

まとめ

大日本史は皇室を中心とする歴史書であり、前期水戸学は尊皇を押し出した思想ではあるが、儒教に基づく合理主義の考えが根底にあった。

大日本史は、神武天皇以降を取り扱い、神代は取り扱わっていない。

また、皇統の正閏を正すということで、南朝 新田義貞 徳川家康の正統性を主張しており、その当時の堅固な徳川幕府という現実を踏まえていた。もちろん、倒幕など考えてもいなかった。

 

それが、列強による侵食、徳川幕府の制度疲労という現実を踏まえ、水戸学の思想も変質していく。

 

  • 前期水戸学
    •  担い手
      • 水戸二代目藩主、水戸光圀(1628年〜1701年)
      • 支えた史官:安積澹泊、三宅観瀾、栗山潜鋒
    • 考え方
      • 尊王思想
      • ただし、幕府を否定するわけではない
    • 大日本史の特徴
      • 皇統の正閏
        • 神功皇后を天皇ではなく、皇后に位置づける
        • 大友皇子を皇太子ではなく、天皇に位置づける
        • 南朝を正統とし、北朝を閏統とする
      • 人臣の是非
        • 楠木正成ら南朝の忠臣 > 源頼朝、足利尊氏ら征夷大将軍 > 北条時宗(元寇から日本を守った鎌倉幕府執権)というように朝廷目線での序列で臣下を評する

 

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