- 今回は、後期水戸学について説明します。
- 江戸中期から幕末にかけて、藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎ら、強烈な思想家が出てきて、後期水戸学を作り上げます。
- 前期で尊皇思想を主張した水戸学は、後期では尊皇攘夷となり(「攘夷」が加わります)、思想は先鋭化していきます。
- 明治維新を実現する理論的根拠となり、維新の志士たちに多大な影響を与えます。
彰考館総裁の立原翠軒
二代目藩主、徳川光圀によって開始した大日本史は、光圀没後、本紀列伝の部分が完成、幕府に献上される。
水戸藩としては、京都の天皇に献上したかったようだが、幕府に止められる。
以降、しばらく大日本史の編纂作業は停滞期に入る。
次に、動くのは六代藩主、徳川治保(はるもり)のときからである。
当時の彰考館(大日本史を編纂する機関で、江戸・小石川の水戸藩邸にあった)の総裁は、立原翠軒(すいけん)。
立原翠軒は、1789年(寛政元年)、「日本史上梓の議」を藩に提出、光圀百年忌の1799年(寛政11年)の大日本史の刊行に向け、準備を開始した。
藤田幽谷
ちょうどそのころ、彰考館に15歳の少年が入ってくる。
後期水戸学の創設者ともいうべき藤田幽谷(ゆうこく)である。
藤田幽谷は、古着商の息子だが、あまりにも頭脳明晰ということで、立原翠軒への弟子入りを推薦された。
早熟の天才だが、性格は狷介(けんかい。自分の意志をまげず、人と和合しないこと)だったらしい。
早熟の天才の4つの論文
15歳から18歳にかけて、矢継ぎ早に4つの論文を書いている。
- 志学論(しがくろん):学問をするには、注釈書ではなく原典を読め。論語の注釈書を読むのではなく、論語そのものを読め。
- 安民論(あんみんろん):民衆を広く富ませ、かつ教えさとせ。
- 正名論(せいめいろん):君臣上下の名分(めいぶん)を正せ。
- 建元論(けんげんろん):元号は一世一代であれ(明治以降はそうなっている)。
正名論と松平定信
この中で中心となるのは正名論だ。
ときの幕府老中、松平定信が人材を求めたとき、水戸藩は藤田幽谷を推薦した。
松平定信は何か書いたものを見せよと言ったので、藤田幽谷は正名論を書き提出した。
「正名」=「正しい名分(臣下として守るべき本分)」というくらいなのだから、藤田幽谷が信じる名分論が展開される。
雰囲気を感じてもらうために、原文の一箇所を引用する。
八洲の広き、兆民の衆(おお)き、絶倫の力、高世の智ありと雖も(いえども)、古(いにし)へより今に至るまで、未だかつて一日も庶姓にして天位を奸(おか)す者あらざるなり。君臣の名、上下の分、正しく且つ厳かなること、なほ天地の易(か)ふべからざるがごとし。
(この国(日本)は、広く、この民は多い中で、力の強いものがあり、知恵の優れたものが現れても、すなわちいかなる権力者であっても、古今往来、天皇になりかわろうとしたものはいない。我が国で、君と臣、上下の別が厳正であることは、あたかも天と地をひっくり返すことができないのと同じだ。)
天皇の絶対的権威を申し述べている。
松平定信は、これを読んで、幕府を軽んじている危険を感じ、藤田幽谷を幕僚として採用しなかった。
松平定信の読み取り能力、直感は正しかった。
正名論の本質
正名論は、天皇を筆頭に、幕府、諸藩、士農工商等の序列、上下関係すべてを維持・尊重するという考えではなかった。
天皇の絶対的権威を強調することが目的だった。
それにより、それ以下の、幕府〜庶民に至るまでの上下関係を相対化させてしまうという効果を持つ。
天皇の絶対性さえ侵さなければ、あとは五十歩百歩だ、下級武士だからといって幕府の権威に恐れおののく必要はない、という方向に流れていく。
ただ、この段階では、倒幕とか大政奉還すべきという考えまでは打ち出していない。
ロシアの南下に危険を感じ、林子平の海国兵談が書かれたのが、ほぼ同時期だが、日本を取り巻く情勢について、世間の空気はまだ緊迫していなかったのであろう。
藤田幽谷は、そのあと、藩主・徳川治保(はるもり)に藩の役人の不正を正す意見を出したりしたが、それが過激な言葉でなされたために、江戸・小石川の彰考館を追われた。
水戸に戻り、読書と学究の日々を送った。