後期水戸学(その1)はこちらです。
早熟の天才にして、後期水戸学の創設者、藤田幽谷(ゆうこく)は正名論(せいめいろん)を書くが、ときの権力者・松平定信は、正名論の中に天皇重視、幕府軽視の思想を感じ取り、幽谷を幕僚として採用しなかった。幽谷は江戸藩邸での水戸藩官僚の不正を暴くが、その筆法が激烈なことで逆に水戸に返され、読書と学究の日々を送る。
水戸学の三大議論
読書と学究で満足する幽谷ではない。活動を開始する。
標的は、彰考館総裁の立原翠軒(すいけん)、幽谷15歳のときからの師匠である。
ちょうど、立原翠軒は、先述したように光圀百年忌の1799年(寛政11年)の大日本史の刊行に向け、編纂作業に追われていた。
藤田幽谷は、次の3点の問題を提起した。これは水戸学の三大議論と言われている。
志・表の問題
大日本史は次のように構成されている。
- 本紀(天皇の事績)
- 列伝(皇后以下臣下の事績)
- 志(神祇、氏族、職官など分野別の制度史)
- 表(人名表、年表など資料類)
このうち、本紀と列伝は、光圀百年忌までの完成が見込まれていたが、志と表までも完成させることは難しい状況だった。
そこで、立原翠軒は本紀と列伝の部分だけで大日本史を刊行しようとしていた。志と表の編纂が決定されたのは、光圀没後17年目の1716年(享保元年)だが、志と表の編纂はずっと遅々として進んでいなかったのである。
立原翠軒の本紀と列伝だけでの刊行という方針は、完璧を目指しているといつまでたってもものごとが進まないからという現実的な対応であろう。
それに対し、藤田幽谷は志・表も完成させるべきと主張した。
本紀と列伝は、いわば人物伝なので、天皇については徳があるから国が治っていたなど、儒教的な観点からの道徳的評価が中心となる。皇后や臣下についても、同様に天皇に対する忠義心といった道徳的評価が中心となる。書き慣れており、古来、蓄積もある。
一方、志と表は分野ごとの制度史などで、執筆方針も定まっていないし、資料も消化されていない。たとえば、現代の歴史学の土地制度史のような蓄積はないのである。だから、なかなか書き進められない。(実際、幽谷が大日本史の編纂責任者になってからも進んでいない。)
しかし、制度史の取り扱いは、道徳人物史から近代的な歴史学へ昇華させるものである。また、制度を研究することにより、中国の猿真似ではない、日本独自の工夫、特徴を発見することにもなる。
とはいえ、志・表を完成してから刊行すると、光圀百年忌に間に合わない。幽谷の問題提起は、翠軒プロジェクトの座礁を企図したものだった。
大日本史の題名問題
これは、志・表問題以上に、ためにする議論だった。
万世一系の天皇をいただく日本は、古来、王朝の変遷はない。したがって、わざわざ「日本の歴史」という必要はなく、「史稿」とでも書けばよいというもの。
中国なら古来、王朝が変わっている(異民族による王朝が入れ替わり成立している)ので、歴代王朝ごとの名前をつけている(漢書、宋史など)ことと対比しての問題提起だ。
主張は理解できるものの、大日本史と名付けられてから80年以上経っている。今さら感ありで、実際、大日本史の献上先の光格天皇が大日本史のままでよいと言うと、幽谷はあっさりと意見を撤回している。
立原翠軒を困らせるためという問題提起の意図は明らかだ。
論賛削除の問題
これは、黄門様の変質でも取り上げたが、一言でいえば、南北朝正閏論の超克だ。
論賛とは、史実に対し論評を加えるものだが、天皇の事績について善いも悪いもないではないか、南朝が正統で、北朝が閏統(傍流)と臣下が論じることはいかがなものかということだ。(正確には、論賛削除を問題提起したのは、高橋担室という人物で、幽谷はただちにその主張に同意した。)
光圀は皇統の正閏を論じることを大日本史の最大の意義としており、南北朝の正閏は皇統の正閏問題の中でももっとも高度な判断を求められるものだった。
論賛は安積澹泊(あさかたんぱく)が書いたもの。安積澹泊は、光圀の信頼もあつく、また朱舜水にも師事しているため、その論賛は光圀の意図を最大限、反映したものだった。
論賛の削除は、皇統正閏の議論を排除するということであり、幽谷が正名論で展開した天皇の絶対的立場を強調することにつながった。しかし、それでは大日本史を光圀の意図から離していくことになってしまう。彰考館は混乱した。
★大日本史の論賛
現在の大日本史では論賛が削除されているが、論賛にはどのようなことが書かれていたのだろうか。
国立国会図書館デジタルコレクションの大日本史論賛集(大正5年、大正書院)で見ることができる。
たとえば、後小松天皇紀のところでは、次のように書かれている。(97〜98ページ。コマ番号では、75〜76/330)
賛に曰く、皇統の別れて、南北となりしは〜(略)〜もとより軽重するところなし。ただ名分のあるところを見て、正となすのみ。〜(略)〜ただ神器の所在を見て正となすのみ。光厳・光明みな叛臣のために立てらる。神器なきにあらざるも、伝ふるところ、真にあらざれば、これをありといふを得ず。然れども神器の軽重は、人心の向背にかかり、人心帰すれば神器重く、人心離るれば神器軽し〜 (適宜、かなに開いて引用)
時系列での流れ
以上を時系列に眺めてみる。
立原翠軒は1799年(寛政11年)の光圀百年忌で、本紀・列伝だけになるが、大日本史の刊行を目指していた。
そこに、藤田幽谷が1797年(寛政9年)、彰考館の同僚あての公開質問状の形で、志・表まで完成させるべきと問題提起した。同時に題名問題も言い出した。
こういったゴタゴタにより光圀百年忌(1799年)までの大日本史刊行ができない中、さらに1803年(享和3年)、高橋担室が論賛の削除を提起し幽谷が直ちに同意した。
論賛削除問題が提起された1ヶ月後、彰考館混乱の責任を取って、立原翠軒は総裁を辞職した。
その3年後、高橋担室が彰考館総裁、藤田幽谷が副総裁に就任し、論賛の全文削除が決定された。すると、志・表ができていないにもかかわらず、大日本史の刊行が開始された!
1809年(文化6年)、論賛を削除した本紀26巻の版本を幕府に献上、翌1810年藤田幽谷の上表文を添えて朝廷にも献上された。
ちなみに、志・表の編纂が進み出したのは、半世紀のち、幽谷の門人の豊田天功が彰考館総裁となった1856年(安政3年)以降のことだった。
水戸藩の分断へ
結局、藤田幽谷の目的は、論賛の削除だった。
論賛削除により、皇統の正閏を論じることがなくなり、皇統は別格のものとなる。これは天皇を頂点にし、かつ天皇を枠外に置く国体概念への道を開くこととなる。
こういった藤田幽谷の動きは、思想面に影響を与えただけでなく、水戸藩の分断にもつながった。
- 藤田幽谷派:倒幕とか大政奉還までは考えていないが、尊皇を第一義と考える人々。下級士族や商人などから構成され、現状体制の打破を志向する人々。天狗党の流れである。
- 立原翠軒派:尊皇思想は理解しているが、佐幕を第一義と考える人々。上級士族からなり、現状体制の肯定、是認を志向する人々。天狗党との対比では諸生党の流れである。
両派の対立は、まず徳川斉脩(なりのぶ)の後継、第九代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)誕生の際に鮮明となる。