後期水戸学(その3)

  • 2020年4月5日
  • 2020年4月11日
  • 歴史
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後期水戸学は、藤田幽谷から始まった。幽谷の思想は、天皇が日本の頂点に位置することの明確化であったが、これを引き継いだのが、会沢正志斎(1782〜1863)、藤田東湖(1806〜1855)ら、幽谷の弟子たちだった。

代表的な著作は以下の二つである。

 

  •  会沢正志斎の「新論」
  •  藤田東湖の「弘道館記述義」

 

会沢正志斎の「新論」

国体

「新論」では、最初に国体が論じられる。「神州は太陽の出づる所」云々で始まる。聖徳太子の日出ずる処でもないが、日本という国の絶対的な優位性を主張する。

 

 

それだけ聞くと、皇国史観に固まったイデオロギッシュな書物を想像する。国体を論じたあと、攘夷、すなわち外国を打ち払え!と書いているので、想像どおりという感じなのだが、本当のすごさは、形勢という章で、イギリスやロシアなどの当時の帝国主義列強の動向を分析しているところだ。

列強動向の分析

特にロシアについては、清を狙っているが、清はまだ強い。そこで、日本を攻略し、日本を拠点として清を攻めるということを考えている云々とロシアの脅威が詳述される。

また、フランス、スペイン、イギリス、ドイツ、インドのムガール帝国、ペルシャ、トルコのオスマン帝国の動静を分析している。

当時のロシアについては、

・1792年(寛政4年)にロシア使節のラクスマンが根室に来航(ちなみに会沢正志斎は、この前年(1791年)、10歳で藤田幽谷の青藍舎へ入門している)

・1797年(寛政9年)ロシア人が択捉島に上陸

・1804年(文化1年)ロシア使節レザノフが長崎に来航

といった具合に、日本への接近を試みていた。

さらに、1823年(文政6年)、水戸領の磯浜沖に異国船が現れ、その翌年には水戸領の大津浜に燃料や食料を求めてイギリス船員が上陸、といったように水戸にも直接、海外の動きが肌で感じざるを得ない状況になってきた。

「新論」が書かれたのは、こういった情勢を背景にした1825年(文政8年)のことだった。

江戸時代というと、漠然と黒船来航でオロオロとしており、当時の帝国主義列強の動静をつかめていたというイメージはないが、知識人階層は相当程度つかめていたことがわかる。

新論のすごみ(リアリズム)

一言で言えば、尊皇攘夷を主張しているということになるのだが、攘夷と言っても単純に異国を打ち払えと言っているのではなく、当時の帝国主義的列強の動きを分析した上で、その列強勢力から日本を守らなければならないことを主張している。

 

 

西欧諸国に植民地化された非西欧諸国の悲惨な収奪状況を考えれば、その主張はリアリストのものである。対抗する日本サイドを統一化するために天皇を持ってくるのは、日本の歴史を見れば必然的な考えである。

幕末になると単純な尊王攘夷、すなわち幕府を倒すというだけの目的で尊王を打ち出し、外国船を打ち払うだけの攘夷になってしまった感があるが、維新政府はそういう尊王攘夷はあっさり捨て去る。

単純な攘夷は捨て去った維新政府だが、尊王は自身のレーゾンデートル(存在価値)として強化する。尊王に傾斜し過ぎそれ自体が目的化したりと時代によって強弱、バリエーションの違いはあるものの、尊王を軸にした国体思想は、幕末、明治、大正、昭和と生き続けていく。

わが国の歴史を踏まえれば、日本国の最大の特徴は尊王であり、歴史的にはこれを軸に統一されてきたというほかない。また、諸外国の友好的または敵対的な動きを冷静に見極めた上でわが国のポジションを取っていくことが、時代的な制約を捨象した会沢正志斎の攘夷(国防)思想だと考えれば、その考えは現在でも通用するものであり、これが本来の国体思想だと思われる。

 

 

藤田東湖の「弘道館記術義」

弘道館記

藤田東湖の「弘道館記述義」は、水戸九代藩主・徳川斉昭(なりあき)による「弘道館記」を詳細に解説したものだ。

弘道館記のほうは、漢文で491文字と簡潔なもの。読み下し文とその解説がwikisourceにあるので、一度眺めてみればイメージがつかめるだろう。

ちなみに弘道館とは徳川斉昭によって開設された水戸藩の藩校のことである。

 

 

弘道館記術義

弘道館記、弘道館記術義の内容はざっくり言えば、以下のようなものだ。

 

 

  • わが国は道(天地に自然に備わっている大いなる原理のようなもの)にしたがって栄え、歴代天皇はシナの優れた皇帝や政治を援用し、ますます栄えた。

 

  • しかし、仏教伝来以降、道が乱れ、国が乱れた。

 

  • しかし、わが徳川家康公は、尊王攘夷の考えにより、乱世を収め、正道に戻した。

 

 

尊王攘夷

徳川家康の尊王攘夷とは、皇居を造営したことなど(尊王)やキリスト教を禁止したことなど(攘夷)を指しており、幕末の尊王攘夷思想の実態とはやや離れたものだ。

しかし、言葉としての「尊王攘夷」は弘道館記・弘道館記述義で、はじめて生まれた。

尊王という単語も、攘夷と単語も、古来使われてきたが、その二語をつなげて尊王攘夷という言葉を作り出したということである。

言葉は現実を動かす強力な武器になる。幕末の日本をダイナミックに動かしたのは間違いなく尊王攘夷という言葉だ。

 

仏教の敵視

もう一点、道が乱れたのが仏教伝来以降と言っており(原文は「中世以降」となっているが、仏教伝来以降のことを指している)、仏教を敵視していることだ。

仏教の敵視は以下に由来する。

水戸藩主・徳川斉昭は、当時隠然たる勢力を有していた寛永寺、増上寺をはじめとする仏教界が政治に介入することを苦々しく思っていた。

会沢正志斎の進言もあり、徳川斉昭は仏教界の粛清に乗り出す。

 

これに対抗して、仏教界サイドは幕府にご注進、徳川斉昭を誹謗中傷する。幕府に対し斉昭は謀反の意があるかのようなことを次々に讒言した。

当時の老中・水野忠邦は、斉昭の尊王思想を白眼視していたこともあり、これを契機に斉昭を駒込の別邸に押し込めてしまう。

この仏教界の反発に連動して、水戸藩内でも反斉昭派の動きがあった。反斉昭派は諸生派のことで、流れは立原翠軒につながる。

一方、斉昭派は天狗党であり、藤田幽谷につながる。幕末の天狗党の乱という、水戸内戦の淵源である。

何を言いたいかというと、仏教の敵視は純粋な思想の問題などではなく、リアルでドロドロした政治上の対立を反映したものではないかということだ。

現に仏教は、導入当初はさておき、歴代天皇に重んじられ皇室と一体化してきた歴史がある。尊王と仏教重視は親和的であった。

儒教の尊重

これに対し、儒教は重視している。なぜか?

儒教は政治家、支配者の徳を重視する。皇帝に徳がなくなれば、易姓革命により、徳のある皇帝に交替するべきという発想だ。

そして徳の有無は血筋に関係ない。ある意味、現代の民主主義に通じる考え方を持っている。

 

 

これが何を意味するのか。

斉昭はともかくとして、斉昭を支えた藤田東湖、会沢正志斎、また天狗党の連中は下層武士や商人などが中心である。血筋は関係ないと言いたいグループだ。

天皇という別格の血筋を押し出すことにより、それと比較すれば幕府、上流武士階級も下層武士、農民、商人も変わらないではないかという血筋の相対化につながりやすい。

天皇の血筋を別格にすることにより皇統の廃絶という易姓革命は否定しながら、それ未満の血筋、序列は否定していく。

ここでも、上流武士階級を中心とする諸生派は血筋、従来の秩序、既得権を重視し、そういったものを持たない天狗党との対立を深めていく。

京都の御所

天皇の別格化などと大仰な表現をしてきたが、幕末、陛下は京都の御所で実際はどんな暮らしをされていたのだろうか。

当時朝廷の式微(勢いの衰えるさま)は衰え、京都の御所内は子供の遊場所となり、御苑の中には茶店が出て、大奥の燈火が遠く離れた町々からも見られたといふ程である。 大野愼『藤田東湖の生涯と思想』

西尾幹二『GHQ焚書図書開封11維新の源流としての水戸学』からの孫引きであるが、まことに日本という国のおもしろさを象徴することだと思う。

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