明治の文豪、森鴎外の小説に『二人の友』という小品がある。
森鴎外は陸軍省の軍医でありながら、帰宅後や休日を使って文学をものにした、元祖副業の鬼のような人物である。
明治32年、近衛師団の軍医部長兼軍医学校長から小倉の第十二師団軍医部長として転任したが、その小倉での日常生活を描いたものだ。
一般に小倉への転任は、左遷とされている。
鴎外自身、やるせない気持ちで小倉に着任、淡々とした生活を開始する。初婚に失敗し、まだ再婚していない独身の時期だった。
鴎外が下宿屋に戻って読書をしていると、のちの第一高等学校のドイツ語教諭となる福間博が訪れる。文中ではF君と称されている。
何か用事かと問うと、鴎外にドイツ語で師事したいという。試みに手元にあったドイツ語の原書を読ませてみると、そうそうたる実力の持ち主であることがわかる。
それだけの実力があるのなら、私(鴎外)が教えることもないというが、いろいろ教えてほしいこともあるので、ということから、鴎外と福間の付き合いが始まる。
これが一人目の友だ。
もう一人は、安国寺さんといって、寺の住職である。鴎外が安国寺さんにドイツ語の哲学入門の訳読をし、安国寺さんが鴎外に唯識論の講義をする。
鴎外の替わりに福間が安国寺さんにドイツ語を教えたことがある。
鴎外のドイツ語訳読は全体の意味を捉えることに注力するものであることに対し、福間は文法、語格の厳密な分析に注力する。安国寺さんは参ってしまった。
その後、鴎外が第一師団軍医部長に転任となり、東京に戻る。福間、安国寺さんもそれぞれ東京に来ることになり、さらに意外な展開が待ち受けている、というように小説は続く。
小倉時代の福間との付き合いの中で、鴎外は福間に金を貸したことがある。25円だが、父の病気のために帰省しなければならないという。鴎外はそれに応えた。結局、その金は返って来なかった。
この金のことはその後私も口に出さず、君(=福間のこと)も口に出さずにしまった。私は返して貰うことを予期しなかったのである。君は又そんな事に拘泥せぬ性分であったのである。これは横着なのでも、しらばっくれたのでもないと、私は思っていた。年久しく交際した君が、物質的に私を煩わしたのは只これだけである。 森鴎外『二人の友』より
鴎外の小説は中学時代から好きで、すがすがしく、読むと頭が整理されるような知性を感じさせる文体で、文章を読む快感を感じさせてくれる。思い出したように手にとっては、ぽつりぽつりと繰り返し読んできた。
『二人の友』もそんな中の一つで、単なる身辺雑記みたいなものといえばそのとおりなのだが、不思議な魅力を持った小説である。
あるとき、岩波書店から出ている鴎外全集の第16巻で、この『二人の友』を読んだ。
この全集は末尾に後記がついている。その作品に関連するさまざまな情報が記載されて、非常に便利なものだ。鴎外の日記や手紙の関連部分を抽出していることもある。
『二人の友』の後記を見ていたら、母親への手紙が掲載されていた。
明治34年9月6日森峰子(鴎外の母親)への手紙
冬着とて別に望無之候へども毛皮のチヨキはほしく存居候随分高価なるべしと存候それに付けても福間か吉永(※)かに返してもらひ度困った人間どもに候
(※)吉永氏にも金を貸していたらしく、同年8月25日付の森峰子宛の手紙で「吉永よりもまだ返金なし」とある。
『二人の友』を読むと、少し高踏的な立場に身を置いている鴎外が見えてしまうのだが、母親への手紙で、まことに人間的なため息をついている姿が見え、うれしくなってしまいました。